〓9月10日(日) 囲い込むツールの適正規模〓


●昨日行かなかった行けなかった市民メディアサミットに今日こそ参加してきました。が、またもや寝坊して午後(というか、夕方?)からの参加…参加費が2000円なはずが1000円になったことが数少ない救いでした(もうプログラムが終了直前だったため)。ちなみに会場は建築学会の記念シンポジウムで初入館したばかりの開港記念会館と、その近くにある、横浜シティアートの新拠点らしいZAIM。僕が参加したセッションはZAIMでありました。

●そんなわけで参加したセッション『地域活性化にSNSは役に立つのか?』。登録者が800万人を突破したらしいmixiに代表されるSNSを利用した地域コミュニティ作り、いわゆる「地域SNS」と呼ばれるサービスが、果たして本当に役に立つのか?役に立つとしたらどんな感じで?といったお話。

ちなみに現在地域SNSは100サイト以上あり、運営上の問題や単純に盛り上がらないといった理由で生まれては消えを繰り返している模様。活発に行っている事例(登録者がそれなりに多く、コミュニケーションが活発に行われているもの)は、

ごろっとやっちろ (熊本県八代市 2000人)

ちよっピー (東京都千代田区 1000人)

VARRY (福岡県 2800人)

ショコベ (兵庫県神戸市 1600人)

あみっぴぃ (千葉県西千葉地区 800人)

とかとか。

●セッションは16時20分〜19時まであって、最初にそれぞれの地域SNSとかの活動内容や運営方法、特色なんかがぐあー、どあーっと説明されて、最後のほうで論点が徐々に絞られて簡単にまとめ、っていう感じの流れでした。アバウト。

●「地域SNS」っていう表現をしてるのは日本だけらしい。話を聞いてて思ったのは、行政主導で「地域SNS」なんて場を用意してもそう簡単に何か新しい人間関係が生まれたり政策提言がされたりひいては地域が活性化するようなことなんて、そうそう起こりはしないというちょっぴり当たり前なことでした。

どうやら今多くの場所で行政主導で行われている「地域SNS」には、地方自治の促進みたいな目的が含まれているようで、ただ単にmixiみたいな自由なコミュニティの形成を促すだけでなく、そこに行政サービスの充実や住民の政策提言の場提供みたいなこともしようとしてるらしい。思うにここに問題が2つあって、1つは「地域を行政区として区切っている」こと、もう1つは「適正規模」。

●mixiと違って、現実でより近い場所に住んでいる人たちが集まれることで、リアルに還元できるネットコミュニティを形成することができる。とは言うものの、実は人の生活圏(=地域)と、行政が区分けしている市町村とは必ずしも一致しない。実際には、市町村の枠組みを超えた「西千葉およびその周辺、ていうか自分は西千葉人だ!と思う人」を対象にしたあみっぴぃの考え方の方が利用者はもっと身近に感じられるはず。あるいは、千代田区のちよっピーは、生活圏と行政区とが一致しないことを分かった上で「区民としてのアイデンティティを再構築したい」という目的を打って出している。これはこれでいい挑戦じゃないかと思う。

●政策提言の場を提供したとして、そこに住民のどれくらいが意欲をもって参加するかというと、1%理論っていうのがあるそうだけど、もうほんと、ゼロコンマゼロ数パーセントとかそんな数だろう。某都留市の電子会議室なんて散々だった。そう、今ネット上で市民が政策提言を行えるシステムを作っても、あるいは一段階下げて、政策提言とかもできる可能性をもった地域SNSを用意したところで、そこに参加するのは「元々意欲のある人」だ。デジタルディバイドのことも考えると「ネットがある程度使えて」という条件も付いてしまう。「意欲のある人たちの溜まり場」としてしか機能しない「地域SNS」。セッションの最後にアウトリーチ(一部の意見が力を持たないように、みんなに情報を行き渡らせて意見を募る、みたいな)が大切だーと言われてたけど、まったくもってそうだろう。行政が「地域SNS」を政策提言の会議の場として大々的に提供するつもりなら、行政区のあらゆる住民が参加できるようにならないと(少なくともそうさせる仕掛けをほどこさないと)いけない。

●じゃぁ、全員が参加するようになればそれでよいのか?と言うと、僕はそうではないと思う。ちょっと脇にそれるけど、セッション内に「地域SNSって言うけど、mixiじゃダメなの?」という話題があった。mixiの「○○県△△市のコミュ」で話すのではダメなのか?という当然出てくる疑問。実はこれに対する明確な答えは出されていなくて、セッション内では「まぁ個別に新しいものを作った方が、機能や使い方など色々自由に、よりニーズに沿った内容でできて面白いものになるんじゃない?」っていう程度。実際、mixi内のコミュ「I love yokohama」は、地域コミュニティでは最大規模の2万5千人を誇り、とにかくその規模を生かした日々の生活に役立つ情報交換やオフ会なんかの交流が行われているそう。

「mixiは肥大化しすぎて何がなにやら分からないし、もっと地域民のニーズに即した機能があった方がいい。だから地域SNSが必要だ」

ってのは、一概にそうは言えなくて、やっぱり目的に沿った適正規模というのがある。mixiで十分、あるいはmixiほどの規模があるからこそできることだって大いにある。

●行政主導の地域SNSでやりたいことに政策提言の場提供が強くかかわっている。今現在は「意欲のある人の溜まり場」。けど仮に人が増えたとき…議論、特に政策やら生活に直結する重要な議論になったときに、ネット上で大人数で合意形成が計れるかというと、絶対無理だと思う。ネット上の議論はとても難しいのだ。せいぜいアンケート調査がネットで簡単に行えるくらいじゃないか。そして、なかなか地域SNSに寄り付かず、けれどmixiの地域コミュを積極的に支えている人たちはどんな性質をもっているかというと、「意欲のある人」に対する「数に埋もれたい人」だったりするのではなかろうかしらと思う。やっぱり多くの人は、「多く」に紛れていることで安心して声をあげたいもんなのだ。特に、ネットの匿名性をある程度回避することで信頼関係や自制あるコミュニケーションを促すというSNSの特徴は、そうさせやすい一面を持つ。

●政策提言の場として成り立つのは「意欲のある人の溜まり場」であってこそ。数が多くなると成り立たない。けれど、全市民に登録してほしい。ちなみに行政区域で分けてるので他市民は参加してほしくない。

っていうのが行政主導地域SNSの実際なら、そりゃどう考えても、流行らないと思うわけです。

ついでに、仮にずっと書いてきた政策提言とかそういうの抜きにして、地域でコミュニティを形成していってほしい!という部分を主要な目的に挙げるのなら、それこそ、まったく、mixiで十分になる。少なくとも行政が自分の行政区域で区切ってやる必要はとっても薄い。「機能の充実」なんて、使う人がほんとにそう願うのなら、わざわざ新しい地域SNSを立てなくたってmixi事務局に提言して実装してもらえばいい。てなわけで、何度も書くけど現行の行政主導の地域SNSは流行らないと思う。

●民間が運営する地域SNSは、地域の幅が柔軟で、コミュニティの形成を目的にできるのでまだよさそう。ただ結局大事なのは「なんでSNSしたいのか」っていう理由の部分で、それによって適正規模も決まってくるもんだと思う。

完全に政策提言に特化した藤沢市の電子会議室は、SNSじゃなくて、全国で廃れていく一方の電子会議室っていう形をとって成功している。目的が明確で、人を集める工夫ができてて、適正規模を 見誤らなかった結果だと思う。発表していた人が言うには、藤沢市は今後も地域SNSを導入する必要はないと思う、と言っていた。

西千葉あみっぴぃはNPOが運営していて、そもそもそのNPOが開講したパソコン教室の生徒が交流を深めたり、覚えた技術を試してみたりする場として「SNSが適当」と判断して始めたもの。だから、今地域活性化として注目はされているけど人をどんどん増やす気はない。

始まったばかりの「かわさきソーシャルネット」は、市の事業ではあるけど、まだ参加は30人超程度で「商用なわけじゃないし、開発段階なこともあり、まだ大々的に募集する必要はない。それよりも確実に参加者のネットワークの質を高めていくことを重視する」というスタンス。ここからどんなことができるかはまだ分からないけど、新しい行政による地域SNSの可能性をじっくり見つけていってほしい。

●増えすぎて困るのは、今はmixiがそうなのかもしれないけど、地域SNSだって同じ。本来の目的が達成できる適正規模があって、それを超えてしまったとき、結局今のmixiに言われるような文句を言う人たちが出てくる。そうなると、さらにその中で(mixiの中で県コミュ、市コミュ、学校コミュ、商店街コミュとか細分化してるみたいに)小さなコミュニティが生まれ、もしかしたら別サイトとして独立するかもしれない。そうしたらきっと、「果たしてそんなにSNSが必要なのか?」とみんな感じるだろう。今でさえ「mixiだけでいいじゃん」の理由に「ログインしなおすのとか面倒くさい」なんていう人はいるだろうのに。
技術的な課題として、「mixiと地域SNS、地域SNSと別の地域SNSとかを、ログインしなおしたりせずに一つの書き込みを共有したりできる仕組みを作っていきたい」とは話してたけど、確かにそれは便利だけど、なんか、それだけじゃ解決できない問題がある気がする。

●僕の大本にあるSNSへの疑問は、「作られたツールを流用してるだけ」に思えるところ。詳しいことはわからないけど、アメリカで開発された「これまでより公開性が強く、話題を共有しやすく、コミュニティを形成しやすい」ツールをそのまんま日本の行政が使おうとしてるっていうのが、なんかすごく不安になる。ブログが記事でなく日記として爆発的に流行るような日本で、そんな妙な使い方して大丈夫なんだろうか。なんて。結局SNSは一定の人を囲い込むことでコミュニティを形成するツールなんだから。

●こう、思ったことを3行にまとめたいですね。

●ちなみに、帰りに寄ったドイツ料理の店がめっちゃ美味しかったです。

ジャガイモを超細切りにしてバターか何かで炒めた料理。パスタかと思いきやシャキシャキでジャーマン最高でした。


〓9月9日(土) インセクツティーチアス2〓


第1回が長文になったので、もっとコンパクトに書くことにする。

●第2回 『恋舞う社』

買い物に行く際、よく抜け道に近所の神社。時々、学校帰りの高校生カップルとかが境内に座っていてキーとか思って避けて通ってたりするその神社に、その日はちょっと変わったカップルがいた。アゲハチョウである。てらてらちらちらと賽銭箱から石灯籠へ、鳥居から木漏れ日へと自由自在に踊り歩く二匹の姿に、僕は神社が誰のものでもなくあらゆるすべてのものであることを改めて気づかされたのである。

●定時散歩に来た老人。保育園に連れる親子。談笑する母親たち。自転車で乗り込んできた小学生。買い物帰りの親子。カメラを持ってたたずむ中学生。行事の打ち合わせと称して缶を手に持つ男衆。学校帰りの高校生カップル。
それだけじゃない。チョウやセミやそのほかの虫や草木や花や土や石や風や日光もやはり神社が好きだ。神社は、あらゆる生き物が出会い、憩い、自由に過ごす、そんな空間なのだ。そこでは、生死や出会いや別れや親子愛や友情や恋心が数え切れないほど生まれては消え、神様の見守る超常の社が吐き出す澄んだ空気がそれぞれの日常を彩っているのである。

●こと神社の話になると無性に意味不明な表現を使いたくなるのはなぜであろうか。
ともかく、神社はこの日も恋が舞っていた。

●夜にニゴと訪れた餃子とかラーメンの店は、ともかくワンダフルな味でした。潤い豊かで水々しいギョーザや一体何なのか最後までわからなかった謎の玉子焼きぽいものが乗った五目焼きそばは、都留の福●レベルを軽く超えてしまっている気がしました。

●何人かの方はお気づきかもしれませんが、寝過ごしたので市民メディアサミットは明日に延期しました。


〓9月8日(金) シルクロードでこんにちは〓


●そんなわけで、日本建築学会大会の本編に行ってきました。イン、

神奈川大学。

●ちなみにこれまで僕が立ち寄った大学は、
 ・都留文科大学
  ・横浜市立大学
   ・山口大学
    ・九州大学
     ・東京大学
      ・埼玉大学
       ・千葉大学
        ・慶応大学
         ・法政大学
          ・跡見女子短期大学
           (追記:・国際基督教大学)

てなわけで、記念すべき10校目。と思ったら、数えなおしたら11校目だった(追記:と思ったら、12校目だった)。そしてこの神奈川大学。キャンパスがものすごく大学っぽいのです。すごい。でかい上に、デザインがいい。汚すぎず、でも綺麗すぎず。立体交差の道があったりして、ほんとに昔イメージしてた大学そのものって感じでした。

●ところで僕は、院生でありながらまともな「学会」というものに参加したことがなく、まったく無知識のままとりあえず現地に乗り込んでみたのです。
するとどうだろう。参加費で4000円。そして興味のあるテーマの講演内容の要約集が3000円。キャンパスに足を踏み入れて15分、7000円の出費。学会は恐ろしいところだ。

●しかし僕だって負けちゃいない。この日本建築学会、なんと学会員の総数が3万2000人という大所帯。で、今回の学会大会には、延べ2万人の参加が見込まれているという。その2万人の参加者、僕が見た限り、9割9分の人がスーツ。そう、僕は、学会はスーツで行くという習慣があることを知らなかった。生まれてこのかた、そんなこと誰も教えてくれなかった。ちなみに残り1分は、シャツにジーパン。これでも結構目立つ。

こんな感じ。すれ違う人みなスーツ。年齢層は、学生5割、大人5割くらい。

●そんな中で僕は、半袖+半パン。

下手すればサンダルというダメ押しが付属してもおかしくなかったんですが、たまたまこの日はスニーカーでした。

いやぁとにかく、注目の的。しかも僕も「来てしまったのだからしょうがない」と腹をくくって、講演のときに教室のど真ん中に座ったりするもんだから余計に。大変良い経験をさせていただきました。

●ちなみに僕が見たのは、建築といっても建築材料とか防火対策、デザインといったメインぽい分野ではなく、都市計画とかまちづくりといったちょっと捻った分野。

地域住民、企業、行政のパートナーシップによる環境改善
(大学とコンサルの関係、プランナーの意識向上など)

子どもとまちづくり
(児童のあそび場の利用実態、公園評価、プレーパーク事業、名古屋どんぐりひろばの展望など)

なんかを聞いてきました。いやー、面白かった!パワーポイントの見せ方、時間制限が厳しい中での発表+質疑のやりとりなど発表方法についても勉強になりました。やっぱり都市計画上のパートナーシップとかはすごく議論されてる話題なので、発表もしっかりしてるしツッコミも厳しい印象。対して子どもとまちづくりは、具体的な事例研究にまで及んでいなくて、そもそもの子どもや子どもを対象とした活動の現状把握に終始していた感じ。建築学会でありながら教育系っぽい人たちが多かったのも印象的でした。もちろん僕はこっちの雰囲気に親しみが湧いたんですが、刺激を受けたのは前者の方。いやぁ、研究って大変だわ。

●17時ごろ、一通り見終わったので脱出。帰りに案の定道がわからなくなって、あそんでた小学生連中に道を尋ねたりしながら、なんとか駅に到達。珍しく東横線なんかに乗ったので、そのまま渋谷へ向かい、なるっちと合流。晩御飯へ。…晩御飯へ。…晩御飯…へ…。

方向音痴で優柔不断でやたらこだわりのある2人が揃ってしまった結果、店を選ぶのに70分かかってしまうという問題が発生。渋谷駅周辺を約3周した。

途中で無意味に立ち寄った大九州物産展。ここで試食した角煮饅頭は、空腹により一歩一歩が命を削る作業と化していた僕に救いの光を与えた。

まぁその甲斐あって、辿り着いた店で食べたパスタは美味しかったです。


〓9月7日(木) さようなら〓


●実はここ数ヶ月、時折鈍い痛みを覚えることがあって、なんかさすがに気になってきたので病院に行ってきました。そしたら先生が様子を見るなり、「ちょっと、いい?」といきなりレントゲン。で、なんか今までに見たことないような、というか近未来を舞台にしたSF映画に出てきそうなハイテクレントゲン機械に包まれて撮影、待つこと5分。写真を眺めながら先生がつぶやく。

「え、うわー…これは…」

聞こえてる、先生、聞こえてるよ。

で、その後写真の詳細説明。同じことを繰り返し、最後に必ず「これが現状です」と言う先生の口調に「これはこの先生の性格なのか、それとも今はやりのいんふぉーむどこんせんとだか言うやつか?」と疑問を浮かべながら聞くことには、

「あるべき神経が消滅していて、もう意味を成してない。腐るだけ。治す方法もないから、もう取ってしまうしかない」

●そんなわけで、僕の右下奥歯は消え去ることになりました。


●  図解 「なにが起きたのか」

これが一般の人の歯の生え変わりの図。注目すべきなのは乳歯の「根」の部分。この「根」は、ただ歯を固定するだけでなく、アゴの血管から必要な栄養を吸収しているそうな。で、当たり前のように永久歯が地下に待ち受けている人は、下からの刺激で「根」がだんだんなくなっていき、その結果乳歯がグラグラと揺れて、最終的には取れてしまうわけです。


で。世の中には「永久歯がない」という人がいます。この場合、下から押し上げる永久歯がないため、刺激を受けず、「根」がなくならない。結果として乳歯はそのままということに。ただ、乳歯は赤ちゃん用の弱い歯で、永久歯に比べて虫歯になりやすいため、生え変わるに越したことはないそうです。で、僕の右下奥歯も永久歯がない。これは以前から分かっていたことで、「虫歯とかで取る羽目にならないよう気をつけなさい」と言われていました。

僕が今回歯医者に行ったのは、右下奥歯に詰めてた銀歯が取れたのをそのままにしてしまっていて(忠告まるで無視…)、ここ数ヶ月のうちに、約5回、「右下奥歯周辺の歯茎が腫れて痛む」という症状が出たのがきっかけでした。このとき僕は、「乳歯が虫歯にかかったんだろうけど、歯が痛むんじゃなくて、歯茎が痛い(化膿したりする)のは何でだろう?歯肉炎とかそういう別の症状かしら?」とか思ってたわけですが…


なんと、僕の乳歯は「根」がなぜか消滅しており、「ただ歯茎の上に乗っかってる、歯“みたいな”もの」と化していた。栄養が吸収できないから、虫歯というか、もう腐っていくだけ。しかも根無しで自由にぐらつくので、歯茎がどんどん痛む。そう、それがここ数ヶ月起きていた症状でした。ついでに放っておくと隣の歯に虫歯菌を移す可能性大。とにかく治し様がない。なるべく早い内に抜くしかない。


「え、…えぇーーーーー」

「放って置いても腐るだけ。これが現状です」というセリフから一向に先に進もうとせず、また同じような説明をする。そんなことを5回くらい繰り返して、やっと僕は「あぁこの先生は僕自身の口から『取ってください』と言うセリフを聞き出したいんだな」と気づいて、「取ってください…」と伝えました。しかし回りくどかった。インフォコンセーンムドってこんな手順じゃないとダメなの?

●てなわけで、どうやら差し歯というか両隣の歯の間を埋めるような歯“みたいな”ものを付け直すらしいです。
あーあ…


〓9月6日(水) デズカムケンティック〓


●デッジカッメがっ!

復活!!!

なのに!なぜか!記録メディアが!ない!!
まるで!ガットのない!テニスラケット!!!

●ひょんなことから日本建築学会大会の記念講演・シンポジウムに参加。

行ってびっくり。

会場の開港記念会館がなんとも歴史を感じさせる豪華さ。まったくもって予想外でした。ちなみにこの日は雨。僕は傘なし。道間違えなくて良かったと、濡れた服をタオルで拭きながら思いました。ところでなんでタオルはあったんだろう。

●最初の中田市長の講演は超超早口の20分間マシンガン。最初に都合上早口で時間内に最後までやりますと断りが入ったものの、ほんとに早口。でもちゃんと聞き取れるし理解できる。とにかくパワフル。さすが改革派。市民活動奨励や公共事業の民間委託、環境対策、個性の創出。それぞれ市民活動支援や広告付きバス停、ゴミ30%削減や都市景観に関する条例、オープンカフェ常設や東京芸大誘致など、ちゃんと目に見える形でやってるからすごい。特に広告付きバス停、あれセンスいい。

●第1部後半の中田市長と大宅映子の対談は、

・これまでの行政は「宣言」するけどやらないから意味ない。だから「行動都市」と名乗ることにした。

・市民が私民となっており、責任を取ろうとしてない。行政はかけこみ寺ではない。あらかじめルールを自分たちで作り、自分たちが責任を持つことの自由度の高さ楽しさを知る必要がある。「参画しないと損するぞ」というような仕組みを作りたい。

とか、そんな感じでした。「(地域住民だけでなく地方行政も)どれほど自分の場所に責任をもてるかを考えていく必要がある」という中田市長、「市民が私民になって責任をとろうとしないからダメ」という大宅映子、あと「市民はまったくそういうことに触れてこなかったからやりようがない。きっかけが必要」という司会の簑原敬。そんな構図でした。

●第2部には、いよいよ最大の目当てだった仙田満が登場。学会の4人と司会の簑原敬、小浦久子を交えてパネルディスカッション。

・村上修三 ⇒ 環境に負荷をかけない脱物質文明を目指すことは、建築的には非常に制約となるが、それを新たな性能創出のきっかけにしていかないとだめ。そのためには、この日本建築学会は建築だけじゃなくいろんな分野の人がいるからすごく力強い。

・岡田恒男 ⇒ 建築物の耐震性は、1981年の法律改定を境に安全性の最低基準が厳しくなり、一見安全性が増したように見える。でも実際はそんなことなくて、昔の基準を(10点)、新しい基準を(50点)とすると、昔は計算の精度も低かったので、(10点)を満たすのは当然として、それ以上がんばる建物も多かった。だから、(11点〜80点)みたいに安全性はかなりバラバラ。でも新しい基準になった辺りでは、計算精度も高くなり、みんなが(51点)みたいなギリギリラインで作るようになった。てことは、新基準になったからと言って必ずしも昔より安全な建物というわけじゃない。で、作るからには儲けなきゃなんないから、とにかくコストダウンして、基準を満たすギリギリの(50.5点)とか(50.1点)とかの建物ばかりになっていく。こういう仕組みになってるから、耐震性を偽装する人たちが出てもおかしくなかった。ニンニン。

・石川幹子 ⇒ 今後の都市建築は緑地をどう取り入れるかが重要。横浜市をベースに、どのような都市開発をしたら洪水被害がどのように拡大するかのシュミレーションをしている。というか宮島の向かいにあるビル群はひどい。

・仙田満 ⇒ 緑地の必要性は同感。戦後50年で横浜の斜面緑地は1/4になった。美しい町並みの形成には、デザイン、個体距離、緑地のバランスが重要。子どものあそび環境は悲惨な状況。40年間の調査で、横浜の子どものあそび場は1/100くらいになった。40年前横浜の50%は緑地だった。これが子どものあそび場だったことは間違いない。日本の戦後住宅は一戸建て庭付きだったけど、現在は低層高密の中庭型住居じゃないかな(適度な児童密度による交流、ただし生活技術向上のため子どもや母親が外に出たがらない高層=15階建て以上はダメ)。プレーパークみたいな安心してからだと心を解放できる安全な広場、自然体験の場がもっと身近に必要。あと、設計入札はダメ。市民の90%がコンペやプロポーザルを望んでる。

そんな発表が個々にされた後、ディスカッションに。

●じゃーそういう話をまとめて、特に斬新でハイテクな建物や文化財的な建物でなく、普通の住宅みたいな建物を今後どうしたらいいかと言うと、どうやらまだこれといったアイディアはまとまっていない様子。

・普通の建築がなぜ上手くいってないのか?

 ↓

・日本の狭い道路と木造建築にいきなり欧米の都市デザインを持ち込むという半端な戦後主義がずっと続いているせいで、「これが今の日本に最適のデザインだ」という建築イメージがバラバラでまとまってない。まずは方向性の合意を取るところから始めないといけない。

 ↓

・けど、とりあず儲からないと始まらない。最低基準の問題もそこに原因がある。環境配慮、安全性、町並みなどに本当に注力すると、儲からない。

・個人主義が浸透し、個々の建物の安全性には気を使うけど、集団の安全性に文句をつける人がいない。災害があったときにドミノ倒しになる可能性がある。一軒一軒の評価や、建てる前の評価だけでなく、まち全体や建てた後などトータルで評価する仕組みが必要。

 ↓

・効率化・分業化が進み、作る側が責任を分断される状況もよくない。最初から最後まで責任を持つことで、生み出す側の創造性を喚起するような社会システムにしないとダメ。あとそういったプロフェッショナルを育成したり、モラルの自覚を促すような仕事を学会はするべき。

 ↓

・そうした中で本当にあるべき町並みについて建てる側も住む側も意識を強く持ち、クライアントに異議をとなえることのできる世論形成をしていくべき。学会はそこんとこがんばろう。

●というような感じでした。

●帰りによった中華料理屋の定食がめっちゃ美味しかったです。


〓9月5日(火) インセクツティーチアス〓


●第1回 『クモと僕のジレンマ』

シャワーを浴びようとしたら、壁の腰くらいの高さのところにひっついてた。普段どおりにしてると流してしまいそう。できれば外に避難させたいけど、もう時遅く浴びちゃったので外に出られず、触るに触れず。壁も水気を帯びてきて、放っとくと足をすべらせて落ちそう。天井の方に登ってくれることを願いながら、こじんまりと頭を洗う。
頭を洗い終えてからチラ見すると、なんとも彼は、一歩も動いていなかった。おおい頼むよ。ドキドキさせないでよ。次はからだなんだ。頭のときより攻撃範囲が広くなるよ。

●結局彼は、最初から最後まで一歩も動くことなく、約15分の水害に耐え抜いた。殺生せずに済んだ安堵感と、亡骸を片付けなくて済んだ安堵感。ほっ。そこで考える。「結局彼は、動けなかったのか、動かなかったのか?」。クモは頭がいい。多分彼は、動かなかったのだ。

●クモが水に対して強くなく、濡れた壁だと滑り落ちてそのままクシャクシャになって召されてしまう可能性があることを僕は経験則で知っている。しかし今回僕は、そうならないギリギリのラインで彼の避難経路を死守したつもりだ。それなのに彼が登ろうとしなかったのは、おそらく、「(自分が)被害に合わない状況を(この人間は)生み出せるだろう」と踏んだからなのだ。
後から考えてみれば、確かに僕は、頭を無事洗えたことで、現在の彼の位置であれば(危険な位置なのは間違いないが)どうにかこうにか無事にやり過ごせる気がしていた。もし彼が動いて位置が変わってしまえば(それも何度も)、いくら天井という安全地帯に近づいているのだとしても、そのたびに僕は位置情報を更新し、柔軟に対応を変化させなければならない。ましてそこで滑ってしまえば一巻の終わりだ。だから彼は、動かなかったのだ。

●これは、「囚人のジレンマ」の話に似ている。共犯で刑3年となっている2人の犯罪者(2人は事件について黙秘し合う約束をしている)が別々の取調室にいて、「このまま2人とも黙秘したら刑は3年」「裏切って自白すれば君だけ1年、ただし向こうには15年になる」「2人ともお互いを裏切って自白してしまうと、両方10年にする」と取引を持ちかけられる。自分が裏切り、相手が黙秘すればたった1年で出れる。しかし相手も裏切ると10年。自分が相手を信じて黙秘しても、向こうが裏切ったら自分だけ15年…一体どうすれば!というやつだ。この問いかけは、「減刑の魅力に捕らわれず、相手のことを考えてお互いが黙秘を選択すれば、2人とも3年で済む。ちょっとくらい妥協して協調した方が平和だ」という一つの教訓を得ることができる。

●彼は、お互いが少しずつ妥協をすることで、「召される」「召された亡骸を裸で片付ける」という最悪の可能性を回避したのだ。まったく頭を垂れる思いである。


〓9月4日(月) サブカルチャースタジアム・魔都・TOKIO〓


●人生初、同じ映画をもう1度観るという異業!

てなわけで、前見たときよりずいぶん上映館数が増えている『時をかける少女』を観てきました!2回目!場所も同じテアトル新宿!まったく問題なし、いやむしろもう1回観たかった!

客層がちょっと変化していて、前回来たときより「オタクっぽくない人たち」の比率が上がってました。というか平日昼間なのに結構な人。「東口で」と言ったにもかかわらず「西口で」降りてくれた鈍爺と「南口で」合流して、急ぎ足で向かったところ、整理番号は40番。まぁ間に合ってよかった。

鈍爺「(僕が絶賛してたので)アニメでそれほど面白いものなんてあるのかと思って観てみたけど、確かに良かった」。そう、とにかく「アニメってなんて…」という人にもぜひ観てほしい作品です。ちなみに勢いでサントラ購入。挿入歌がとてもいいです。

●観終わってから、さくらやへ。「銀塩の一眼レフがほしい。でもコンパクトデジカメもほしい。今CMしてるニコンのD80(これはデジタル一眼レフ)も見たい」と言いながらカメラコーナーに行って、見つけてしまったのは、なんとコンパクトフィルムカメラ(デジカメじゃない、普通のやつ)「NATURA」。初めて知った、なんだこれ。
てっきりフィルムのコンパクトカメラはもうデジカメに押し負けて消滅するものだと思ってたんですが(まぁ実際、デジカメが9割を占めてるらしいけど)、これは一部のカメラ好きの間で大人気らしい。店員さんがいい人・詳しい人だったのでいろいろ聞いたところ、

・解像度ではデジカメはまだフィルムに及ばない。フィルムの方が温かみのある自然な質感の写真が撮れる。

↑の理由で、まだフィルムカメラを使いたがる人は根強くいて(これは僕も同感)、

・今までのコンパクトフィルムカメラは暗いシーンにとにかく弱かったけど、これはフラッシュなしで綺麗に撮れる(感度1200以上のフィルムが最適)

・加えて最近高感度フィルムの質が向上して、ざらつきがないのでとても綺麗な写真が撮れる(実際見た写真がとても綺麗でした。これはコンパクトデジカメじゃむり)。

・デジカメには難しい広角レンズが備わっている

・ついでにデザインがとても良い

↑というわけで、完全に「写真好き、カメラ好き」の人向けの商品として出されたみたい。見れば見るほど、聞けば聞くほど欲しくなってくる。価格はそれなりの3万円。デジカメと比較すると同じようなもんだけど、今コンパクトフィルムカメラは4千円〜7千円くらいのもんなので、実はかなり高額なのです。でも欲しい!

と思ったら鈍爺が惚れこんで、どうやら次の日ネットで注文してしまったそう(9月5日現在の情報)。

いやぁしかし、さくらや1階で見た最近のコンパクトデジカメも、1000万画素とか感度2400とかなんかいつの間にかドラクエからファイナルファンタジーみたいな数値になってしまってましたが、「NATURA」見た後にもう1度見るとそんな大したもんじゃないように思えてきてしまいました。それくらい衝撃的な商品。

まぁ!明日には僕のFinePix450が修理から帰ってくるんだけど!なんだかんだで、記録写真撮るのに一番便利なのはデジカメだし、あのハイコントラストな画像もかっこいいっちゃかっこいいわけです。

ちなみにD80は重かった。

●遅い昼飯は図に乗って肉。

クリームペッパーソースという、店員に聞いても「いやぁ、ちょっと表現しづらいんですけど…」と困るような怪しいソース。どっこい、めっちゃ美味しかった。でも食べ終わって思った。「ちょっと図に乗りすぎた」。
ところでこの写真すんごい美味しそうに撮れてますね。まぁ美味しかったんだけど。

食べながら、鈍爺先生の恋愛講座を受講。単位は取れそうにありません。

●すっかり気に入ってしまった下北沢。初めて行ったとき、すごいすごいとは思いつつあまり見て回れなかったヴィレッジヴァンガードへ。他の店でどうなってるのかよく知らないんだけど、とにかく漫画の品揃えがコアすぎる。前回は漫画コーナーに魅入ってしまって他に何があるのかいまいちわかんなかったんですが、まぁ色々センスのいい雑貨やら家具やらCDやら時計やらがたくさんありました。時計欲しかったな。

「漫画はサブカルではない」「三島由紀夫はサブカルである」「ラーメンズの片桐仁は絵がめちゃくちゃ上手い」そんな話をしつつ。

●その後、鈍爺がクツとカバンを購入。靴と鞄といつも書き間違えそうになる。

「コーディネートの評価募集中!」とのこと。

●メジャー大作でなく小規模上映。
実写でなくアニメ。
シェア1割のフィルムカメラ。
クリームペッパー。
小説でなく漫画。
漫画の中でもかなりコア。
若者文化。

そんなサブカル散策でした。


〓9月3日(日) ディス(イズ)コミュニケーション〓


●僕がそもそも「子どもと関わるなんかが面白いかも」と思ったのは高校3年のときの保育実習なんですが、その頃からずっと疑問なことがあるんです。

●その前に今さら思うのは、多分本当にあの保育実習がなければ僕は大学で児文研には入っていないので、そう考えるとあの実習がとんでもなく重要な転換点だったような気がするということです。ただひたすらあそんでTシャツ汗びっしょりにして、実習終わってみんな帰ってるのに一人子どもらにつかまって帰らせてもらえないという、多分1実習地につき1人はいたであろう人になってしまったんですが、それがこれまで小さな子とあそんだことがあまりなかった僕を「なんか俺ガキ大将みたいじゃん!」などとずいぶん満足させたらしく、まぁその後それを自分の将来にとはまったく思いませんでしたが、大学でテニスサークルや写真部や文芸部が軒並み楽しそうじゃなかった当時の僕に児文研に目を向けさせるくらいの影響は与えていたらしいのです。

●閑話休題。

●何が疑問かと言うと、「子ども同士にしか分からない話し方がある」ということ。ん?何か意味がわからんな。どういうことかと言うと、その保育実習をしたときに、

 ・園児が何かしゃべっている

 ・しかしなんて言っているのか、どうしても理解できない

 ・周りの大人も理解できない

 ・が!他の園児はそれに反応する!

 ・コミュニケーションがとれている!

という経験をしたんです。つまり、(多分)日本語を話しているんだけど、大人には分からなくて、子どもには分かる、そんな暗号みたいな話し方があるんだーーー…あるんだ!?って。タネ明かしとしては

 ・発達的にみんな似たような未熟な発音になってしまうので、
   本人たちには何といっているのか理解できる

まぁこれが基本だと思うんです。と言っても、会話っていうのは雰囲気で察する部分も多いわけで、「雰囲気で察する」というのは、「相手の今の気持ちを理解できる」ことが元にあるはずなので、こうだとも思う。

 ・その園児の今の気持ちを、他の園児はきちんと理解できているので、
   結果として何を言っているのか(何を言いたいのか)理解できる

発達心理で言ったら本来は相手の気持ちを知覚できるようになるのはもう少し大きくなってからなんだっけ?けどまぁ、雰囲気を察する能力はもうある程度持っているんだろうなぁ。というか僕にだってそれくらいあったしなぁ。「クレヨンしんちゃん」は、幼稚園児とは思えない知的な会話が繰り広げられますが、あながちそう非現実的ではないと思います。だから僕はあのマンガが好きなのです。

●大学時に小学生と話していてもやっぱりそういうことがあって、なるほど当時の僕たちもきっと先生には理解できない言語を操っていたのかもしれないなと思いました。
で、昨日の劇では、滑舌が悪かったり早口だったり、話のテーマが難しかったりした割には小さな子も真剣に見入っていて、多分そこには、子どもたちにしか共有できない気持ちがあって、子どもたちにしか聞こえない言葉があったんだろうなぁと感じたというわけです。でもなんかそれって不思議だな。と、疑問というか世界の不思議とか霊感とかそういうのと同じ感じで、僕の中にオモシロ現象として住み着いているのです。

●一見言葉として成り立ってないから、見てて面白いんだな。


〓9月2日(土) ジブリキングダム未遂〓


●ガンモが書いた長編小説を読み終えたと思ったら夜が明けていて、というか朝5時。あらびっくり昼から用事があるのにってなもんです。しかも寝ようにも寝付けず、

 「こうなったら運動しかないぜ!!」

 と今日も運動しました。

●結果。

 腕立て 50回(今日はできた)
 腹筋  50回
 ジョギング 10分

 腕立て+腹筋の時点で相当ばてて、腰が痛くて走るどころじゃありませんでした。道行く人たちに「おっせぇなこの若モン」と罵られないように必死の形相で走り続けましたが、もうほんと腰が痛くて、人気がなくなった瞬間時速4.2kmくらいにペースダウン。遅。人が現れたらプライドをかけてペースアップ。もうバテバテ。
しかも!それだけがんばったのに寝れない!よほど小説の読後感を味わってたかったとでもいうのか。

●そんな寝れない状況で出発した先は、前とむやん未踏の地、三鷹市!芸術文化ホールにて、子ども38人による子どもだけの劇「光の王国」を観てきました。

が!人が多すぎて(600名収容のホールがいっぱいで)、外でモニター観劇することに。なんてこった。画面が小さかったり子どもが緊張して早口になっちゃってセリフ聞き取りづらかったりで序盤ちょっと展開がつかめず。でも後半になってやっと話の全容がつかめて、なかなか面白く観れました。すごいのは38人全員にちゃんとした役とセリフがあること。公募で集まったらしいけど…よく練習したなぁ。自分と同じ子どもが演じていることに不思議な魅力があるのか、観てる子どもたちもかなり集中してたようです。こういうのもっとできればいいのにな。

●その帰り道、見事道を間違えた結果偶然にもたどり着いたのは、

ジ、ジブリ美術館だ!!

ほげー、トトロがお住まいになってらっしゃる!すげー、予期せぬ出会い、不思議な出会い!さすがジブリだぜ!中には一体何が待っているんだ!

ところがどっこい。

なんとこのジブリの森、小さな子にしか入り口が見えないらしく…大きな僕には見つけることができませんでいた。残念無念。(ちなみに、どうしても入り口を見つけたいという大人の方は、公式HPにて事前予約をすれば大丈夫なようです)

●夜は広島風お好み焼きを食べたり「坂内食堂」の喜多方ラーメンを食べたりしました。


〓9月1日(金) 寝たネタ〓


●すっごい長い夢を見たけどメモるのを忘れてたら案の定忘れてしまいました。どうやら僕は5分以上夢の内容を覚えていられるんですが、さすがにすぐメモらないと消え飛びます。この経験から思うのは、「儚い」の「夢」は、現実の夢ではなくやっぱり眠ったときに見る夢のことで、叶わないというのでなく覚えていられない泡のようなものであるという意味で生み出されたのではないかと思うのです。まぁ思ったっきりそれっきりなのでいつか「いややっぱり現実の夢が叶わない泡のようなものであるという」とか言い出すかもしれませんが、そもそもそういった移ろいやすい人の「思いつき」のことを「果敢ない」と表現するのではないかとも思うわけです。こんなことをつらつらと書き連ねるだけで日記というのは淡々と進んでいくものなので、みなさん「日記のネタがない!」とかそんな悲しいことは言わないでいいですよ。日々あなたが思ったことが日記になるわけですからして、いやはやまったく日記を他人に公開するという行為には、実は「他人の日記を盗み見る」という背徳的な楽しみが根底にあり、それを逆手にとり「他人の日記を盗み見ているように『錯覚』させる」という楽しみが生まれる。つまり、プライベートを晒すという楽しみと、プライベートを覗き見る楽しみがあった。「普段は見れない他人の世界」を「覗き覗かせる」というコミュニケーションだったわけです。それはネットに限らない、昔から、生活のそこかしこにある「イケナイ共有」だった。ネットではそれにだんだんと公にプライベートの話題をもとに交流する楽しみが取って代わるようになり、ネット独自の日記コミュニケーション文化が広まったということになります。今「覗き覗かせる」という点にポイントを置くサイトやそれを好む人たちは、少しイケナイ気がしておりそこが楽しいはず。インターネットとはそもそもそういうアンダーグラウンドなイケナイコミュニケーションから発達したメディアだというお話です。

●こんな感じで日記なんて終わっていくわけです。

●ここから分かることとしては、僕が今日1日雨のせいで大した活動をしてなくてネタがないんだなぁ、ということです。

●デニーズシーの新しいアトラクションが楽しそー。


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