他人の「正しさ」によって不利益を被ったり、不快に思ったりする人が現れたとして、宗教や法や利潤や慣習や道徳や理性や生理などで、その言動を「誤り」だと判断し否定するよりも前に、その言葉や行為を「正しい」と判断し世に生み出した人が「そこにいる」ことを肯定する必要があると思う。
つまり、確かにそのとき、それを「正しいと思った」人がいたことを肯定し、正しいと思ったことを受け入れた上で、「その正しさを否定する」べきではないかと思うのだ。それは、かなり「許す」という行為に近い。『罪を憎んで人を憎まず』という言葉が近いのかもしれない。
なぜなら、犯罪にしろケンカにしろただの小言にしろ好き嫌いにしろ、宗教や法や利潤や慣習や道徳や理性や生理などによって「誤り」だと判断し否定すべきなのは、「その人」でなく、その「正しさ」だからだ。
決して『悪いのは環境』と全部環境のせいだ、と言うわけではない。人は、生まれ育つ環境を選ぶことはできないが、その環境から貪欲に栄養を吸収し消化するのはその人自身の力だ。自らの意思でサボる生き物であると同時に、自らの意思で働く生き物である。それは他の生き物だって変わらない。そしてその意思は、「環境(社会)に教育される」という当然の摂理を逆手にとって「環境(社会)自体を変化させる」という行為すら可能にさせる。
けれど、そうは言ってもやはり、僕は環境による教育の影響は果てしなく大きいと思ってしまう。その人が「確かに人である」と認識した上で、事実を受け入れその人を許した先に、初めて確かな「その人がそれを正しいと判断した理由」が掴めるのではないか。それが、僕自身の「正しい行動」ではないかと、思ってしまう。
「なぜ正しいと判断したのか」の理由を探ると、そこに何が見えてくるのか。「正す」べきなのは何なのか。
もしかしたら、その人が抱いている「理想」。その言動は、「理想」を求めて生み出された一所懸命さ、または「土台無理な理想」が生み出した不満なのかもしれない。
もしかしたら、こちら側の「正しさ」。宗教や法や利潤や慣習や道徳や理性や生理、または、そう、「僕自身」かもしれないじゃないか。
考えれば考えるほど、何を「正す」べきなのか見えなくなってくる。けれど、だからと言って安易に目の前の人を否定することは避けたい。