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【死】


例えば事故に遭うとき時間の経過がスローになるのは、危険を知った脳がフル回転して情報を処理するからだという。

それが発展して、例えば飛び降りなどして、その人が死を確信したとき、脳がとんでもない速さで情報を処理することで、その人は地面に着くまでに果てしない(普通の時間の概念とは違う)思考時間の経過を体験する。そしてそれはもしかしたら「永遠とも思える」時間で、その人は実は「死ねない」のかもしれない(永遠に「死ぬ直前」を体験し続ける)。という話を読んだことがある。

もしそれが本当だったとしたら、あらゆる「故人」は、僕たちが日々過ごしている時間が「止まっているに等しい世界」を今も生きていることになる。永遠なんだから、やがて自分が今から死ぬことを気にしなくなって、思い出にふけったり世界のこれからを模索したりくだらないバカ話を考えたりしているかもしれない。

世界には過去があって、このアパートの土地は以前は田んぼだったかもしれないし、知ってる人は少ないけれど、うちの大学がある場所なんて50年前は競馬場だった。そしてそこには必ず人がいて、田んぼを耕した人も競馬を楽しんだ人もいるし、学校を作った人がいてアパートを建てた人がいて道路を造った人がいてそもそもここに初めて住んだ人がいたからこそ、今ここに僕がいる。そしてそういった人たちのほとんどはすでに故人で、今もどこかで永遠をさまよっている。

「脳が限りない速度で回転」とか「永遠とも思える時間を過ごしている」とか、にわかには信じがたい話だけれど、それを言ったらあらゆる死に関する話は大体信じられない。想像できない世界なんだから、どう想像したって良いと思う。むしろ「無」を想像しろったってそんなこと今の僕にはできないし、死後の世界だってあんまり現実的じゃないなら、この話の方がよほど信じられやすいんじゃないだろうか、とも思う(寿命で大往生する場合、脳が回転するのかどうかよくわかんないけれど)。



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【一所懸命】


どうせいつか死んで、そしていつ死ぬかわかんなくて、さらに死が永遠の時間をもたらすのなら、そこで僕はたくさんの後悔をすると思う。絶対する。後悔しがちな性格だから。どうせするのなら質の高い後悔をしたい。遠い未来に、近い将来に、来年に、明日に、1時間後にたくさんの理想を打ち立てて達成させていきたい。毎秒毎秒瞬間瞬間を理想的に過ごすことができれば良い。

けれどそれは土台無理な話で、理想は適わないのが当然で、というか、どうあっても適わないのが本来打ち立てるべき「理想」なのだと思う。自分を含め関わる人みんながサボることなく活動して、そして運が最も良い状況が続いた先に理想がある。現実的じゃないからと言って、わざわざ理想自体の段階を下げる必要はないんじゃないだろうか。だって、人は自動的にサボるものだ。どうあってもサボってしまうし、あるいは路線を外れた行動を取ってしまうし、運は変動するものだから、理想が「土台無理な話」になる可能性は最初からはっきりと存在する。どうせ失敗するなら質の高い理想でありたい。それで後悔をしたい。ということ。

高い理想を打ち立てて、それを現実にするための道筋を細かに設定する。漠然と壮大で遠い理想ではサボったり運に左右されたりしやすいから、目の前のことと繋がるように考える。その一つ一つの要素を、なるべくサボらないように、良い機運が廻ることを願って、「とりあえず一生懸命がんばる」。ひとところをがんばって、それが人生の理想に繋がっていくのなら、「一所懸命」が積み重なって「一生懸命」の姿勢が生まれる、ということかもしれない。一所懸命。本来の意味とは少し違う気がするけれど。

理想を立てられない、なんてことはない。幸せな自分を想像してみればいい。どんなに漠然と壮大で遠いものでも、それが今の自分の理想ということだろう。これから、その道筋を探さないとならない。そのためにとりあえず、一所懸命。



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【人それぞれさ】


理想を求めて生きるなら、その生き方は理想ごとに違ってくるだろう。ということは、理想を求める手段も人それぞれということだろうか。ある人は常に自分を犠牲にして歩いているかもしれないし、またある人は常に他人を蹴落として回っているかもしれない。

また、人は必ずサボる。そして運は必ず変動する(そもそもあるのかどうかもあいまいだけれど)。そのサボるタイミングやサボり方は人それぞれだし、運に左右されるあり方もまた人それぞれだ。

それらの「人それぞれさ」は、紀元前生まれか戦後生まれかで決まったり、日本生まれかアンティグア・バーブーダ生まれかで決まったり、キリスト教か八百万の神信仰かで決まったり、生後2ヶ月か180歳でギネスに載っているかで決まったり、精子を提供できるか代理出産ができるかで決まったり、大資本家か労働者かで決まったり、朝日派か読売派かで決まったり、助産師か葬儀屋かで決まったり、やっとのことでしがみついた都留大生か仮面浪人のつもりで入った都留大生かで決まったり、スチュワーデスと呼ばれたいかフライトアテンダントと呼ばれたいかで決まったり、オリンピックに出場しそうなのか数学オリンピックに出場しそうなのかで決まったり、A型で几帳面かO型で大雑把かで決まったり、血液型占いを信じるか信じないかで決まったり、鼻が高いか耳たぶが大きいかで決まったり、鼻が高いことを自慢するか耳たぶが大きなことを卑下するかで決まったり、ラーメンズが好きか爆笑問題が好きかで決まったり、「ウンコ」という単語を耳にして引くか引かないかで決まったり、僕が「ウンコ」なんて書いてることに引くか引かないかで決まったり、白血病の少女が死ぬ映画を観て泣けるかどうかで決まったり、年上が好きか年下が好きかで決まったり、僕かそうでないかで決まったり、する。



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【正しさ】


それぞれの人が考え実行したこと、あるいは考えなく実行してしまったこと。それらは例外なく「正しさ」を含んでいる。100%あらゆる面において「誤り」である言動は存在しない。

いつも戦時中の話をする老人、電車のスペースを占領する若者、ネットにはまる子ども、理不尽な叱責をする上司、よく話を聞き間違える母親、気持ちが高ぶって子どもを殺そうとする父親、いじめを繰り返す先輩、自殺を考える後輩、牛乳が嫌いで流して捨ててしまうクラスメート、牛乳嫌いが多いことを知りながら牛乳を出し続ける給食センター長、牛乳嫌いが多いことを知り牛乳を出すのを辞めさせる学校長、周囲の非難を押しのけて一般市民には不要な橋を掛ける市長、それに賛同する助役、反対して組合を結成する課長、「幽霊を見た」と主張する同級生の男子、どのミュージシャンの話題にも「私もそれ好き」と賛同してくる同級生の女子、僕のことが好きだと言うメル友、僕のことが嫌いだと言う隣人、それらに対して差しさわりなく曖昧な返事を繰り返す僕。

そのとき、その人が、そう思った、あるいは感じ、反応したということについて、その言動は「正しい」。「そのときのその人」を紛れもなく肯定している。

若者は「電車のスペースを占領する気がある」という面において正しい。父親は「殺してしまうほど子どもに対する気持ちが高ぶっている」という面において正しい。クラスメートは「牛乳のことが捨てるほどに嫌いである」という面において正しい。助役は「市長に賛同する意思がある」という面において正しい。メル友は「僕のことが好きだと僕に伝える気がある」という面において正しい。僕は「差しさわりのない曖昧な関係でありたいと思っている」という面において正しい。

あらゆる人のあらゆる言動は、須らく正しい面を持つ。
そして、正しいと思ったからこそ言動は生まれる。



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【正す】


他人の「正しさ」によって不利益を被ったり、不快に思ったりする人が現れたとして、宗教や法や利潤や慣習や道徳や理性や生理などで、その言動を「誤り」だと判断し否定するよりも前に、その言葉や行為を「正しい」と判断し世に生み出した人が「そこにいる」ことを肯定する必要があると思う。

つまり、確かにそのとき、それを「正しいと思った」人がいたことを肯定し、正しいと思ったことを受け入れた上で、「その正しさを否定する」べきではないかと思うのだ。それは、かなり「許す」という行為に近い。『罪を憎んで人を憎まず』という言葉が近いのかもしれない。

なぜなら、犯罪にしろケンカにしろただの小言にしろ好き嫌いにしろ、宗教や法や利潤や慣習や道徳や理性や生理などによって「誤り」だと判断し否定すべきなのは、「その人」でなく、その「正しさ」だからだ。

決して『悪いのは環境』と全部環境のせいだ、と言うわけではない。人は、生まれ育つ環境を選ぶことはできないが、その環境から貪欲に栄養を吸収し消化するのはその人自身の力だ。自らの意思でサボる生き物であると同時に、自らの意思で働く生き物である。それは他の生き物だって変わらない。そしてその意思は、「環境(社会)に教育される」という当然の摂理を逆手にとって「環境(社会)自体を変化させる」という行為すら可能にさせる。

けれど、そうは言ってもやはり、僕は環境による教育の影響は果てしなく大きいと思ってしまう。その人が「確かに人である」と認識した上で、事実を受け入れその人を許した先に、初めて確かな「その人がそれを正しいと判断した理由」が掴めるのではないか。それが、僕自身の「正しい行動」ではないかと、思ってしまう。

「なぜ正しいと判断したのか」の理由を探ると、そこに何が見えてくるのか。「正す」べきなのは何なのか。

もしかしたら、その人が抱いている「理想」。その言動は、「理想」を求めて生み出された一所懸命さ、または「土台無理な理想」が生み出した不満なのかもしれない。
もしかしたら、こちら側の「正しさ」。宗教や法や利潤や慣習や道徳や理性や生理、または、そう、「僕自身」かもしれないじゃないか。

考えれば考えるほど、何を「正す」べきなのか見えなくなってくる。けれど、だからと言って安易に目の前の人を否定することは避けたい。



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【僕】


実際には、あらゆる瞬間において「正しさを正す」ということは大変難しいことだ。

非情な殺人事件が大々的に報道されたとき、自分の知らないところで親友に陰口を叩かれていたとき、どれほどの人がその人を許せるだろうか。自分の身近な人が凶悪な事件に巻き込まれたとき、その犯人を許すことができる人なんて、僕を含めてそうはいないだろう。

けれど、なるべくなら、許したいと思う。

その「正しさ」を抱いたことを肯定したいと思う。

贅沢を言えば、正すことができれば、と思う。

でも僕は、その正しいと判断した理由のすべてを探る術を持っていない。加えて「正す」という行為を完璧に行なう力も持っていない。そう考えると、僕が出来ることと言えば、その人を「正しかった」と肯定することと、「正されるべきかもしれない」という意思とその分かる限りの理由を伝えることくらいではないだろうか。そして、そうすることに一所懸命になることではないだろうか(もちろん場合によっては「正す」ことに一所懸命になる必要があるだろうけれど)。

それによって、その人が、宗教や法や利潤や慣習や道徳や理性や生理などおいて「誤り」でなかったり、あるいは僕や周囲の人間を悲しませないような「理想」を打ち立て一所懸命になってくれれば、良いのではないだろうか。


もちろん僕自身が正されるときだってあるだろう。そのときには、「僕が正しいと思っていた」ことを肯定してもらいたい。

そんなスタンスをみんなが持つことが一つの理想ではある。

贅沢だろうか。土台無理な?

そのために僕は、一所懸命であろうと思う。

せめて、自分の手の届く範囲で。

五感の行き渡る世界で。

目の前の人くらい。

ほんの些細ないさかいくらいは。



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【人】


人は、死を恐れる生き物だ。

人は、それぞれの理想を掲げる生き物だ。

人は、サボる生き物だ。

人は、相手の「正しさ」を肯定しづらい生き物だ。


なるべく、死を恐れないでいたい。

できるだけ、自分なりの理想を掲げていたい。

それなりに、サボらず一所懸命にがんばりたい。

少しだけでも、相手を肯定していたい。


人は、弱い生き物だ。

その通り。

だから前向きに生きるしかない。




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