僕がもっていた彼女に関する情報は、関東地方のナントカ県から来たこと、そこには「こうかがくスモッグ」という大変危険な気体が漂っていること、窓を閉めて避難しないととんでもない目に遭うらしいこと、あとどうも家が近いらしいことだった。黒板に大きく書かれた名前を背にもう少しいろいろ紹介した気がするけれど、いかんせん関東に巣食う気体状の化け物の存在が衝撃的だったので、今の僕が覚えていないわけでなく、当時の僕もそれ以外の情報は持っていなかったと思う。一方彼女が僕について持っていた情報はさらに少なく、おそらく直前に伝えた名字だけ。今にして思えば彼女はよく現在の関係にまるで似つかわしくない突然の強引な誘いを受け入れたものだ。これがもし思春期真っ只中の中学2年の僕だったならば、あれ、これはもしかして好かれているのかな、参ったなぁ、好きな子は他にいるんだけどなどと調子の良い勘違いを本気で起こしてしまっても何らおかしくない展開だった。 まぁそれが普通の転校初日の子ならごく当たり前の反応だろうなというツッコミは当時の僕自身も靴を履き替えるころにはちゃんと自覚していたわけだけれど、どちらにしろ良いことをしたわけで特に問題はないし、偉いことをやっているんだという自負心と、他のクラスメイトに先駆けて友だちになれそうだという優越感と、見知らぬ異性と2人きりで歩くことへの期待感とを抱いて、ちょっとした非日常を味わう下校路を満喫するつもりには変わりなかった。たった一言でこんなにも自分を取り巻く空間が変質するとは思わなかった。
「こっちは正門。山の手の方に住むやつらは裏門から出るんだ。ここのツツジはこのあいだまで蜜吸えたよ。」
僕は、何となく、彼女の返事が遠のいていくのを感じていた。そもそも会話自体、僕の校舎や遊具や茂みや店の紹介や説明に対する彼女の「うん。」という返事のみで構成されていた。そして、坂道を下る途中の文房具屋を通り過ぎたときに、僕はついにそれと相対し、ゴングは鳴った。 「…あ、この店、面白い鉛筆売ってるんだよ。」
そう、彼女は本当はものすごく人見知りで引っ込み思案でおとなしい子だったのだ。さらに後々の交友関係から察するに、特に男子に対する免疫がないらしかった。話せば話すほど仲良くなれるのが普通だと考えていた僕は、だんだんと続かなくなっていく会話に得体の知れない恐怖を覚えてきた。それでも何とか会話を続けようと小学生なら誰もが知っているだろうヒーロー戦隊ソンメンの名を出したけれど、驚いたことに彼女はソンメンを知らなかったわけで、思いもよらぬカウンターパンチをくらった僕はそれまでの満足気な非日常空間から突き飛ばされなんとも居心地の悪い沼地に足を踏み入れてしまい、ついに沈黙した。と同時に、まさか待ってましたというわけではないだろうけれど、彼女も努力することをあっさり止めてしまった。 「…………。」
ディスコミュニケーションという魔法は時間と空間を無駄に引き伸ばす効力をもっていて、僕の通学路は一見すると片道20分のアスファルト塗装された道のようで、どうやら実は1時間以上はゆうにかかる蛇の道のようだった。ひたすらに続く沈黙の中で、左隣でうつむいて歩く女の子に何か話を振るような気分と気合いはとっくに失われ、そう言えば最初から僕の目を見て話すことはなかったなぁ、とか、この子あんまり可愛くないよなぁ、とか、空き缶でも蹴りながら一人で帰る方がいいなぁ、とか、とにかくいろいろなことを右斜め下の方をぼうっと眺めながら考え続けることで、なんとか湧き上がる逃げ出したさを抑え込んでいた。そこには一片の正義があった。 |